こんなん見つけてもうた。

武士道 (図解雑学)

武士道 (図解雑学)

あれは一昨日のこと、仙台ロフトのジュンク堂で俺は、いつものようになんか面白い本ないかなーなんて思いながらぶらぶらしてたんだ。そしたらこいつが俺の目に映った。オレンジの表紙。ひときわ目を引くぜ。
こいつを一目見た瞬間、いやな予感が走った。なぜって、「武士道」ってあんた。そんなもんまやかしに過ぎないじゃないか。とりあえずぱらぱらっとこいつをめくってみた。目次に目をやってみる。すると最初の項目にはこうあった。
新渡戸稲造の『武士道』
あっちゃー。やっぱりそうきたか。予想通りの展開。正直言ってあんまり嬉しくない展開。まあ別に新渡戸稲造の書いた『武士道』が悪いって言ってるわけじゃない。でもね、現代に生きる人たちは映画「ラストサムライ」に出てくる武士達(正々堂々と戦い、卑怯なまねを嫌い、自分が潔くあるためには死すらもいとわないような人たち)が信じていた武士道こそ日本古来から続くもの、日本人独自の美しい、世界に誇れる心だと思ってる方がほとんどでしょう。でもそれは大間違い。今日「武士道」といわれているものは実はとても新しいものなのです。具体的に言うと江戸時代に入ってからできたもので、ほんの2,300年くらい前に生まれた思想なんです。
なんで武士道っていうものができたかっていうと、江戸時代になって、戦争がなくなったから、戦う事を必要としなくなった武士達が「何もする事ないなー、でもなー、代わりになんかないもんかねー」っていうことで生まれてきたのが武士道です。とても簡単に言うと、そういうことです。
それ以前。中世においてはそんな武士道なんてものはなかった。それは『平家物語』とかをちらっと読んでみただけでもわかることです。命乞いをして、助けてもらったにもかかわらず、その命の恩人を何のためらいもなく殺す場面が『平家物語』には描かれています。もちろん、こんな若いやつを殺したくはないといったためらいや、戦を通して命の大切さを知り仏道に目覚めるといった内容の話もありますが、そのような話だけで『平家物語』ができているわけではないのです。それを見逃してはいけない、と思います。
だって、考えてみたらそうでしょう。「自分がいかにしてダメージを受けずに相手に勝つか」これが戦争の基本であるはず。それはいつの時代も同じであってしかるべきだと思います。勝たなきゃ始まらない。死んでしまったら元も子もない。それが普通の考え方だと思います。そうなると正々堂々と一騎打ちなんてしますか?負けると分かっていて真正面から戦いに挑みますか?ありえない。事実、兵糧攻めなんて卑怯極まりない方法が使われているじゃないですか。あれなんてのは武士道とはわりとかけ離れているやりかただと思いますけどね。こんな風にえげつないやり方が行われているのを知りながら、でも今日我々は「武士道」という言葉を聞くと、兵糧攻めやだまし討ちがあったことをすっかり忘れてしまうようで、「正々堂々」「潔く」といった精神が、古来から日本人の心には宿っていたと感じてしまうようで。
でもそんなものはちょっと冷静になって考えてみれば嘘っぱちだっていうことは明らかで、新渡戸稲造の『武士道』は確かに当時の諸外国に対する日本の認識を向上させるには非常に有益だったかもわかんないけども、それを当の我々日本人までも丸呑みで信じさせてしまったのはいかがなものかと言わざるを得ないと思うなあ。「ラストサムライ」だって本当に面白い映画だと思うけれども、あれが日本人の真の姿だとは考えられない。
武士道だけじゃない、このように私たちが今住んでいる社会にはほんっとに色んな情報が溢れている。しかもどれもこれももっともらしいように見える。どれが正しくて間違っているかなんてのは分からないし、それすら時代とともに移り変わっていくものに過ぎない。私たちはそんな中でただ自分に向かって流れてくる情報を鵜呑みにしてしまうのか、それともその情報を受け止めた上で、さまざまな角度から見てその価値を判断するのか。難しい事だけども、後者でありたいと思うなあ。